日本のワインには、ひとりの巨人がいます。川上善兵衛——「日本ワインの父」と呼ばれるこの人物は、明治のなかば、新潟・上越に岩の原葡萄園を開きました。彼が生涯をかけて挑んだのが、日本の風土に合うワインぶどうの育種。その結晶が、いまや日本中で愛される赤ワイン用品種マスカット・ベーリーAです。
この特集は、MBAの系譜をたどる旅。生みの親・岩の原葡萄園を起点に、北は山形、南は九州まで、この品種を醸すワイナリーを訪ねます。同じMBAでも、土地が変われば味わいも変わる——飲み比べれば、日本という国の多様さそのものが見えてきます。各蔵の訪問情報は、お出かけ前に公式サイトでご確認ください。
「三年一作」の越後に、ぶどうを植えた人
川上善兵衛は1868(慶応4/明治元)年、越後国頸城郡北方村——いまの新潟県上越市北方——の川上家に生まれました。頸城平野に多くの土地を持ち、多くの小作人を抱えた大地主の家です。父を早くに亡くし、7歳で家督を継いで六代目善兵衛となりました。
彼が育った土地は、豪雪と河川の氾濫に繰り返し痛めつけられ、「三年一作」——三年に一度しかまともに穫れない——とまで言われた場所でした。岩の原葡萄園の公式資料は、善兵衛が掲げた理念を「殖産興業・国利民福」と記しています。ぶどうは荒れ地でも育ち、田畑をつぶさずに済む。新しい産業として根づけば、小作人たちの暮らしが変わる。そう考えたのだと伝えられます。
そして1890(明治23)年6月、22歳の善兵衛は自宅の庭園に鍬を入れました。屋敷の庭を壊して畑にし、「岩の原葡萄園」と名づける。ワイナリーの創業として、これほど覚悟の見えるはじまりも珍しいでしょう。
なお、しばしば語られる勝海舟との関係について、公式が記しているのは「川上家と海舟に親交があり、善兵衛が相談に訪れて激励された」「海舟のもとで西洋渡来の葡萄酒を振る舞われた」というところまでです。「海舟に師事した」「海舟の勧めで決意した」という言い方は、後年ふくらんだ表現と考えたほうが正確でしょう。ただし物証は確かにあります。1897年刊『葡萄種類説明目録』の題字は勝安芳(海舟)の揮毫で、園内のレストラン「金石の音」の名も、海舟から贈られた書の言葉に由来するとされています。
1万311回 — 交配という気の長い仕事
日本にヨーロッパのぶどうを植えても、雨と湿気に負けて病気になる。かといってアメリカ系の丈夫な品種では、ワインにしたときの香味が物足りない。ならば両方を掛け合わせて、日本の風土に合う品種を自分で作る——それが善兵衛の出した答えでした。
独学でメンデルの法則を知った善兵衛が交配を始めたのは1922(大正11)年、53歳のとき。以後、1944年に世を去るまでの二十余年で行った品種交雑は1万311回に及びます。方針は明快で、病害に強く日本の気候に耐えるアメリカ系を母に、香味の優れたヨーロッパ系を父に。そこから1940(昭和15)年、優良22品種として学会で発表されたものが選び抜かれました。東京帝国大学の坂口謹一郎らと組み、化学分析と官能試験まで行っての発表です。
| 品種 | 交配 | 交雑年 / 初結実 | いまの立ち位置 |
|---|---|---|---|
| マスカット・ベーリーA | ベーリー × マスカット・ハンブルグ | 1927年 / 1931年 | 日本の赤を代表する品種。生食にも醸造にも使われる |
| ブラック・クイーン | ベーリー × ゴールデン・クイーン | 1927年 / 1932年 | 酸とタンニンが強く、色濃い辛口赤に。受入数量でも赤の第5位 |
| ローズ・シオター | ベーリー × シャスラー・シオター | 1927年 / 1932年 | 白系。岩の原では瓶内二次発酵の泡や「深雪花」白にも使われる |
| レッド・ミルレンニューム | 未詳1号 × ミルレンニューム | 1929年 / 1933年 | 甘口・辛口の白として現在も商品化されている |
| ベーリー・アリカントA | ベーリー × アリカント・ブスケ | 1923年 / 1929年 | 果肉まで赤い濃色系。少量ながらいまも醸造に使われる |
一つの交配から実が生るまで四、五年。それを一万回。1941年には「交配による葡萄品質の育成」で、民間人として初めて日本農学賞を受けたと伝えられます。旅の出発点に立つとき、この時間の長さを思い出してみてください。
石蔵と雪室 — 明治の設備が、いまも動いている
岩の原には、善兵衛が造った建物がそのまま残っています。
第一号石蔵は現存する日本最古のワイン蔵とされ、2008年に国の登録有形文化財となりました(建造年は公式サイトが明治27年=1894年と記し、1895年とする資料もあります)。第二号石蔵は1898(明治31)年の建造で、1990年に上越市の指定文化財に。こちらはいまも現役の樽熟成庫で、見学の見どころとして案内されています。
もうひとつ、この土地ならではの工夫が雪室です。電気冷却のない明治に、善兵衛は第二号石蔵に雪室を併設し、冬の雪を貯めて発酵温度の管理と夏の熟成庫の冷却に使いました。地下水と冷気を蔵へ導く「冷気隧道」も残ります。そして現在、環境負荷を減らす目的でこの雪室が復活し、冷却だけでなく雪を使った熟成も行われています。真夏に、雪の冷気の中へ入れる。旅の体験として、これはなかなか他にありません(雪室の公開は4月〜10月)。
勝沼と越後は、一本の線でつながっている
日本ワインのもうひとつの源流は山梨です。1877(明治10)年、祝村(現・甲州市勝沼町)に大日本山梨葡萄酒会社が設立され、高野正誠と土屋龍憲の二人がフランスへ派遣されました。帰国後の1879年に国産の本格ワインを完成させますが、会社そのものは十年と続かず解散します。
ここで面白いのは、文化庁の日本遺産「日本ワイン140年史」が記す一節です。解散後も東京で醸造を続けた土屋龍憲のもとに集まった若者のひとりが、新潟県北方村出身の川上善兵衛だった——勝沼の系譜と越後の系譜は、人を介して確かにつながっていました。シャトー・メルシャンが自らのルーツを1877年のこの会社に置いているのも、同じ流れの話です。
一方で、誤解を避けるために書いておきたいことがあります。同じ新潟でも、カーブドッチを起点とする新潟ワインコーストと岩の原に、直接の系譜関係はありません。カーブドッチは1992年、落希一郎らが新潟市の角田浜の砂丘地でヨーロッパ系品種の栽培を始めたのが出発点で、周辺のフェルミエやドメーヌ・ショオはその「ワイナリー経営塾」から生まれた蔵です。上越の岩の原(善兵衛品種)と、砂丘の新潟ワインコースト(欧州系専用種)。同じ県に、別の源流が二つあると捉えるほうが、この土地の面白さがよく見えます。
1934年の資本参加と、2013年の国際登録
善兵衛の育種は、私財を注ぎ込む事業でもありました。経営は行き詰まり、1934(昭和9)年、寿屋(現・サントリー)の資本参加を得て共同経営の法人となります。鳥井信治郎が借財を引き受けたという逸話は二次資料に多く見られるもので、「そう伝えられる」にとどめておくのが誠実でしょう。確かなのは、いまも株式会社岩の原葡萄園として存続し、サントリーのワイン事業のグループ会社に含まれていることです(出資比率は非公表のため、「完全子会社」といった断定は避けます)。
そして、この物語にはよくできた続きがあります。2013年6月7日、マスカット・ベーリーAがO.I.V.(国際ぶどう・ワイン機構)のリストに登録されました。EUへ輸出するワインのラベルに品種名を書けるようにするための手続きで、2010年の甲州に次ぐ2例目(のちに2020年の山幸が続きます)。日本醸造協会誌の報告によれば、このとき品種特性を調べるために使われた供試樹は、岩の原葡萄園に受け継がれてきたマスカット・ベーリーAの交雑オリジナル樹でした。1927年に善兵衛が交配した、その木の血が、86年後の国際登録を裏づけたことになります。
数字で見る、いまのマスカット・ベーリーA
国税庁「酒類製造業及び酒類卸売業の概況(令和6年アンケート)」によれば、赤ワイン用の生ぶどう受入数量はマスカット・ベーリーAが2,145トンで第1位。メルロー1,254トン、コンコード975トン、キャンベル・アーリー886トンが続き、善兵衛のもう一つの品種ブラック・クイーンも434トンで第5位に入ります。産地の内訳は山梨1,319トン・山形385トン・長野167トンで、生まれ故郷の新潟より、むしろ山梨と山形が主産地になっているのが現在の姿です。
味わいの特徴としてよく語られる「いちごキャンディのような甘い香り」は、フラネオールという香気成分によるものと説明されます。メルシャンは2015年に、この香りが果汁中の配糖体から生まれること、成熟の十週前後で大きく増えることを解明したと発表しています。タンニンが穏やかで、渋みより果実の親しみやすさが前に出る——照り焼きや焼き鳥といった甘辛い味つけと相性がよいと言われるのは、この性格ゆえです。品種そのものについては品種図鑑で詳しく扱っています。
旅の組み立て方
出発点の岩の原葡萄園(新潟県上越市北方1223)は、北陸新幹線・上越妙高駅からタクシーで約25分。えちごトキめき鉄道の高田駅から路線バスで「北方」下車という行き方もあります。車なら上越ICから15分、駐車場は無料です。
園内は川上善兵衛記念館を起点に一周およそ60分。記念館から徒歩10分ほどの丘の上に登ると、頸城平野と日本海、そして春日山までを一望できます。見学は無料で、貯蔵庫を案内してもらう所要20分ほどのコースのほか、事前予約制・1日1回(11:30)・先着20名のガイド付きツアーがあります(20歳以上)。試飲は希望者のみ有料。石蔵の中は真夏でも肌寒いので、羽織るものを一枚。
買って帰る一本を選ぶなら、代表銘柄の「深雪花(みゆきばな)」から。名は、雪深い上越に咲く雪椿に由来するとされます。赤はマスカット・ベーリーAを樽で熟成させたもの、白はシャルドネにローズ・シオターを合わせたもの。スタンダードの「善」、ローズ・シオターの瓶内二次発酵スパークリング、レッド・ミルレンニュームの甘口・辛口まで揃うのは、ここが育種の家だからです。
ここから先は、山形の酒井ワイナリーやタケダワイナリー、勝沼の老舗、九州の都農ワインへ。同じ品種が、土地ごとにどれだけ違う顔を見せるか——それを確かめる旅が、日本ワインのいちばん贅沢な楽しみ方かもしれません。各蔵の営業日・予約要否は変わりますので、必ず公式サイトでご確認のうえお出かけください。






