世界最高峰のピノ・ノワール
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)は、ブルゴーニュ・ヴォーヌ・ロマネ村に拠を構える、世界最高峰の生産者です。中心にあるのは、村の斜面中腹に横たわるわずか約1.8ha(1.814ha)の単独所有畑(モノポール)「ロマネ・コンティ」。ここから生まれるワインは年間およそ5,000〜6,000本——世界中の愛好家が奪い合うには、あまりに少ない数です。ピノ・ノワールが表現しうる均衡と複雑性の極致がここにある、という評価は、百年以上ほとんど揺らいだことがありません。
修道院、コンティ公、そして競売
畑の記録は1232年、サン・ヴィヴァン修道院がこの区画を手に入れたところから始まります。17世紀に「ロマネ」の名が生まれ、1760年、王族のコンティ公ルイ・フランソワ・ド・ブルボンが破格の価格で取得——以後この畑は「ロマネ・コンティ」と呼ばれるようになりました。ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人との争奪戦の逸話はあまりに有名ですが、後世の脚色を含むと見る説も根強く、「そう伝えられる」物語として味わうのがよさそうです。
近代の転機は1869年。ワイン商ジャック=マリー・デュヴォー=ブロシェが畑を取得し、その子孫が1912年に「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」の名を登記します。1942年に持分の半分がアンリ・ルロワへ渡って以来、ド・ヴィレーヌ家とルロワ家が折半で共同所有する体制が今日まで続いています。1974年から48年間ドメーヌの顔であり続けたオベール・ド・ヴィレーヌは2022年に退任し、現在は甥のベルトラン・ド・ヴィレーヌとルロワ側のペリーヌ・フェナルが共同で率いています。ルロワ家側の物語はドメーヌ・ルロワの頁で。
自根最後の1945年
ロマネ・コンティの畑には、他のどの銘醸にもない伝説があります。19世紀末に欧州の畑を壊滅させたフィロキセラ禍の後も、この区画だけは接ぎ木をせず自根のまま維持されたのです。しかし戦時中に防除資材が尽き、1945年が自根の樹から造られた最後のヴィンテージに(生産は約600本)。畑は抜根・植え替えされ、1946〜1951年は生産なし、1952年に再開しました。この「自根最後の年」の1本は、2018年のサザビーズで55.8万ドル、2026年3月にはアッカーの競売で81万2,500ドルと、ワイン1本のオークション世界記録を更新し続けています。
9つの特級——モノポールの帝国
DRCの象徴はモノポールの「ロマネ・コンティ」と「ラ・ターシュ」(6.06ha)ですが、手がける特級はそれだけではありません。リシュブール、ロマネ・サン・ヴィヴァン、グラン・エシェゾー、エシェゾー、白の頂点モンラッシェに加え、2009年からは賃借畑のコルトン、2019年からは名門ボノー・デュ・マルトレイから借り受けたコルトン・シャルルマーニュが加わり、現在は計9つのグラン・クリュを数えます。さらにバタール・モンラッシェも小さく所有しますが、こちらは市販されず、ドメーヌ内での提供にとどまるとされる「幻の中の幻」です。ヴォーヌ・ロマネ村の畑の序列は銘醸図鑑 ヴォーヌ・ロマネで詳しく歩けます。
栽培は2007年にビオディナミへ全面転換。ロマネ・コンティなどの区画ではトラクターの代わりに馬で畑を耕す光景が見られます。2010年には「畑の樹に毒を注入する」と脅迫して100万ユーロを要求した男が身代金の受け渡し現場で逮捕されるという、映画のような事件も実際に起きました——この畑が背負う価値の大きさを物語る挿話です。
憧れの頂点として
ロマネ・コンティは1本が数百万円から数千万円。正規流通はアロケーション(割当)のみで、市場の中心はオークションです。多くの愛好家にとって「いつか飲みたい」夢の一本ですが、DRCの世界観に触れる入口としては、同じドメーヌのエシェゾーやコルトン、あるいはヴォーヌ・ロマネ村の他の造り手の村名・一級から始めるのが現実的です。熟成のピークをどう読むかは第29講 ヴィンテージと熟成完全編が役立ちます。ブルゴーニュの畑の階層や奥行きは、第4講 ブルゴーニュ完全編で深く学べます。

