八千年前の甕から、いまのラベルまで。 ワインの歴史は、技術の歴史であり、税と交易の歴史であり、そしてときに、後から作られた物語の歴史でもあります。

ワインの歴史は、しばしば「八千年前のジョージアから」と語られます。これはおおむね正しいのですが、「何が最古なのか」を言わずに使うと、たちまち不正確になる言い方でもあります。まずはそこを整理することから始めましょう。
2017年、パトリック・マクガヴァンらの研究チームが米国科学アカデミー紀要(PNAS)に発表した論文が、現在の議論の起点です。首都トビリシの南約50キロ、ガダチリリ・ゴラなどの新石器時代の遺跡から出土した大甕の内側から、ぶどうに特徴的な酒石酸をはじめとする有機酸、さらにぶどうの花粉やデンプン、果皮の組織が検出されました。年代はおよそ紀元前6000〜5800年。論文が主張しているのは、あくまで「近東におけるぶどうワイン醸造の、最古の生体分子考古学的な証拠」です。
つまり「最古のワイン(の痕跡)」はジョージア、「最古のワイナリー(の施設)」はアルメニア。この二つを混ぜて語ると、どちらかが必ず間違いになります。さらに厳密にいえば、これらの痕跡は栽培されたぶどうを使った証明ではありません。野生のぶどうから造られた可能性を完全には排除できておらず、栽培化がいつ始まったのかは、いまも議論の途上にあります。
「八千年間、途切れずに造り続けてきた」という言い方 ジョージアを紹介するときによく使われる表現ですが、研究が示しているのは紀元前6000年頃という一時点の残渣であって、そこから現在までの連続性ではありません。とはいえ、クヴェヴリ(地中に埋めた甕)による醸造が現在も生きた技術として続いていることは事実で、2013年にユネスコの無形文化遺産にも登録されています。歴史の長さではなく、古い方法が今も使われているという点にこそ、この国の特異性があります(第30講ハンガリー&ジョージア完全編)。
ワインが「どこの、いつの、誰の」ものかを記録し始めたのは、驚くほど早い時代です。古代エジプトの新王国時代(紀元前1550年頃〜)、ワインを納めた壺には、ファラオの治世何年か・産地・所有する王領や神殿・醸造長の名が墨で書き込まれていました。ツタンカーメン王墓から出土した壺の一つには、「治世5年。西方の川の、ツタンカーメン家のワイン。醸造長カア」という趣旨の文字が残っています。
これは今日のラベルが背負っている情報と、ほとんど同じ構造です。産地・ヴィンテージ・造り手——三千数百年前の壺に、すでに揃っている。ラベルという発明が、いかに古い必要から生まれたものかがわかります(第41講ラベルの読み方完全編)。
ギリシャとローマの時代、ワインはアンフォラという素焼きの壺で地中海を渡りました。素焼きは液体が染み出すため、内側に松脂を塗って目止めをします。この副産物として付いた香りが、のちのギリシャのレッツィーナにつながったと説明されます。「古代ギリシャ人が松脂の風味を好んだ」という語り方をされることもありますが、順序は逆で、密封と防腐の手段が先、風味は結果だったと見るのが自然です(第25講ギリシャ完全編)。
ワインの容器が壺から木樽へ変わったのは、ローマがガリア(現在のフランス)を征服してからです。樽はケルト人の技術で、割れにくく、転がして運べ、積み重ねられる。3世紀までに、アルプス以西の交易では樽がアンフォラをほぼ置き換えたとされます。ワインが樽の香りをまとうようになったのは、この実務的な事情の副産物でした。
ドミティアヌス帝の「ぶどう畑抜去令」の扱い方 ローマ皇帝ドミティアヌスが属州のぶどう畑を伐採させ、北方のワイン造りを止めた——という話は広く知られています。一次史料はスエトニウス『ドミティアヌス伝』で、イタリアでの新規植栽を禁じ、属州の畑は伐採するか半分だけ残すよう命じた、と書かれています。ただしスエトニウス自身が「彼はこの措置を貫徹しなかった」と続けて記していること、そして「紀元92年」という年号は史料に書かれておらず後世の推定であること、さらにプロブス帝が解除したという話の典拠『ヒストリア・アウグスタ』は信頼性が低い史料として知られることは、押さえておく価値があります。命じられはしたが、実効性は疑わしく、後世に伝説化した——これが安全な理解です。

1098年、シトー修道院が創設されます。シトー会の修道士たちはブルゴーニュの各地で寄進と購入によって畑を集積し、クロ・ド・ヴージョでは14世紀初頭までに約50ヘクタールを石壁で囲い込みました。「クロ(clos)」とは、まさに囲われた畑という意味です。
ここで、よく語られる物語に触れておかなければなりません。「修道士たちは土を舐め、区画ごとの味の違いを見出し、クリマを発見した」——美しい話ですが、近年の研究は、これを支持していません。
中世の修道士が区画ごとの味の差を見抜き、クリマ(畑の個性)という概念を確立した。ブルゴーニュの畑の格付けは、その千年の観察の結晶である。
「climat」という語は中世の史料に存在しない。ぶどう畑の文脈での初出は1584年、クリマ名でワインが売られた最初期は1676年、体系的な使用は18世紀。中世の記録では、ワインは都市名・色・新旧・税務上の地位で区別されていた。
この整理は、ブルゴーニュ大学のジャン=ピエール・ガルシアらの研究によるものです。ガルシアは、土を舐めるという逸話を、16世紀の土壌鑑定法と20世紀の地質学が後から混ざり合ってできた近代の信仰だと指摘しています。
では、修道院は何もしなかったのか。まったく逆です。彼らが残したのは畑という物理的な単位そのものでした。壁で囲い、境界を文書に残し、何世代にもわたって同じ場所を耕し続ける——後世の人々が「この区画とあの区画は違う」と気づけたのは、比較できる単位が数百年ぶん維持されていたからです。味の発見者ではなく、発見を可能にした土地の管理者。そう捉えるほうが、修道院の功績はむしろ大きく見えてきます。1247のクリマが2015年にユネスコ世界遺産に登録されたのも、この長い積み重ねに対する評価でした(第4講ブルゴーニュ完全編/銘醸図鑑ヴォーヌ・ロマネ)。

ワインは腐りやすい飲み物です。中世を通じて、ほとんどのワインは造られた土地の近くで、その年のうちに飲まれるものでした。これを変えたのが、大航海時代と、それに伴う三つの技術です。
ブランデーを添加すればアルコール度数が上がり、微生物が繁殖しにくくなる。ポート・シェリー・マデイラは、いずれもこの原理で長い航海に耐えました。17世紀に輸送保存のための添加として始まり、18世紀に体系化されたと整理するのが安全です(発酵の途中で止めて甘さを残す現在のポートの方式は、さらに後に確立しました)。マデイラに至っては、赤道を越える往復で加熱と酸化を受けた樽のほうが美味だと気づき、その状態を人工的に再現するという奇妙な発展を遂げます(第15講酒精強化ワイン完全編)。
1703年のメシュエン条約は、イングランドとポルトガルの通商条約です。ポルトガルは英国製毛織物の輸入禁止を解き、英国はポルトガルワインの関税をフランスワインの3分の2に据え置くことに合意しました。フランスとの戦争でフランスワインが入りにくかった事情も重なり、英国の食卓ではポートが定番になります。ある国の人々が何を飲むかは、しばしば条約と関税が決めている——この条約は1840年まで生きていました(第21講ポルトガル完全編)。
ワインが「熟成するもの」になったのは、丈夫なガラス瓶とコルク栓が揃ってからです。17世紀初頭の英国では、造船用の木材を守るためガラス窯の燃料が薪から石炭へ切り替えられました。高温で焼かれた英国製の瓶は、大陸のものより格段に頑丈でした。この「圧力に耐える瓶」が、発泡性ワインの前提条件になります。
ドン・ペリニヨンをめぐる、二つの俗説 ①「早く来てくれ、私は星を飲んでいる」——彼の存命中(1638〜1715年)の記録に一切登場せず、19世紀後半の広告が初出とされます。②「シャンパーニュを発明した」——彼はむしろ、瓶を破裂させる二次発酵を欠陥として抑えようとした側でした。実際の功績はアッサンブラージュ(区画や品種を組み合わせる技術)と圧搾の改善にあり、シャンパーニュの業界団体自身もそう記述しています。なお、砂糖を加えてワインを発泡させる方法を記録した最初期の文献は、1662年に英国王立協会へ提出されたクリストファー・メレットの論文とされます(第6講シャンパーニュ完全編/銘醸図鑑シャンパーニュのグランメゾン)。
そして1855年。パリ万国博覧会に際し、ナポレオン3世の要請を受けたボルドー商業会議所が、仲買人組合に格付けの作成を依頼します。彼らが基準にしたのは味の審査ではなく、それまでの取引価格と評判でした。4月18日に提出されたこのリストが、いまも生きているメドックの格付けです。皇帝が自ら飲み比べて決めた、という話は事実ではありません。
ワインの歴史に、決定的な断絶が一度あります。フィロキセラ——北米原産の、ぶどうの根に取りつくアブラムシの一種です。
1863年、フランス南部のガール県で最初の被害が記録されました。1868年には植物学者ジュール=エミール・プランションが枯死した株の根から虫を同定し、1870年頃には米国の昆虫学者チャールズ・ヴァレンタイン・ライリーが北米由来であることを確認します。輸入されたアメリカ系のぶどう苗が持ち込んだものでした。
被害の規模は出典によって幅がありますが、フランスのぶどう畑のおよそ4割が失われたとする記述が広く見られます(3分の1から3分の2まで幅があります)。「全滅した」は言い過ぎですが、産業の骨格が折れたことは確かでした。
耐性を持つアメリカ系の台木にヨーロッパの品種を接ぐ。「高貴な品種を新大陸の根に接ぐのか」という強い心理的抵抗があった。
二硫化炭素などの薬剤散布で虫を殺す。畑を植え替えずに済むが、効果は限定的で、根本解決にはならなかった。
最終的に、実効的な解決は接ぎ木しかありませんでした。石灰質の土壌に耐える台木の選抜が試行錯誤で進み、1870〜80年代から大規模な植え替え(再建)が行われます。いま世界のぶどう畑のほとんどが、この虫への対処として接ぎ木されている——現在の栽培の姿は、この災厄の後遺症でもあるのです。
そして、ここからが重要です。ワインが足りなくなった時代には、偽造と混ぜ物が横行しました。産地を偽り、水と砂糖で増量する。この混乱こそが、原産地を法で守るという発想を生みます。
よくある誤りに注意 「1935年にINAOが設立された」と書かれることが非常に多いのですが、正確ではありません。1935年に生まれたのはCNAOで、INAOへの改組は1947年です。「1935年にAOC制度が誕生し、その運営機関が1947年にINAOになった」と理解してください。ラベルに並ぶ呼称の制度は、虫と詐欺への対抗手段として生まれた——これが、AOCという仕組みの出自です。
1976年5月24日、パリ。英国人ワイン商スティーヴン・スパリュアと同僚パトリシア・ギャラガーが企画した目隠しの試飲会で、フランス人9名を含む11名の審査員が採点を行いました。結果は、白=シャトー・モンテレーナのシャルドネ1973年、赤=スタッグス・リープ・ワイン・セラーズのカベルネ・ソーヴィニヨン1973年——いずれもカリフォルニアが首位に立ちます。審査員のなかにはドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの共同経営者オベール・ド・ヴィレーヌの名前もありました。
この「パリスの審判」は、新世界のワインが一夜にして地位を得た事件として語られます。ただし、「フランスに完勝した」という書き方は、統計的には支持されていません。経済学者オーリー・アッシェンフェルターらは、各審査員の点数を単純に平均する当時の方式では、極端な点をつけた審査員の影響が過大になると指摘しました。実際、採点の幅は審査員によって大きく異なっていたのです。
正確に言うなら、この日示されたのは「カリフォルニアがフランスの最高峰と互角に戦える」という事実であり、その象徴的な衝撃が決定的だった、ということになります。それでも歴史が動いたことに変わりはありません。1978年・1986年・2006年に行われた再現試飲でも、カリフォルニア勢は上位を占め続けました(第12講カリフォルニア完全編)。
1978年、ロバート・パーカーがニュースレター『ワイン・アドヴォケイト』を創刊し、100点法を導入します。当時の評論に対する不信——生産者との利益相反——への対抗として始まったこの手法は、やがて市場を動かす力を持ちました。同時に、「パーカリゼーション」と呼ばれる現象、すなわち高得点を得やすい濃く凝縮したスタイルへ世界中の造り手が寄っていったという批判も生まれます。点数という制度が持つ功罪は、いまも議論の対象です(第33講ワインの買い方完全編)。
国際ブドウ・ワイン機構(OIV)が2026年に公表した報告によれば、2025年の世界のワイン生産量は約2億2,700万ヘクトリットルで前年からわずかに増加したものの、歴史的な平均は下回っています。より示唆的なのは栽培面積が6年連続で減少していることと、消費量が長期的に縮小していることでしょう。八千年続いてきたこの飲み物は、いま「量を減らし、意味を問われる」局面に入っています。
日本の歩みも、世界の歴史と無縁ではありません。
ぶどうは兵器なり 太平洋戦争中、ワインの澱から採れる酒石酸を精製したロッシェル塩が、対潜水艦用の水中聴音機(ソナー)の部材として必要とされました。国税庁の租税史料によれば、そのために戦時下でも砂糖が特別に配当され、「ぶどうは兵器なり」という標語が掲げられたといいます。嗜好品としてのワインが、まったく別の理由で国家に必要とされたという、日本のワイン史でもっとも奇妙な一章です(第9講日本ワイン産地巡り)。
現在もっとも確かな証拠は、ジョージア(南コーカサス)の紀元前6000〜5800年頃の土器から見つかった酒石酸などの痕跡です。ただしこれは「化学的な痕跡としての最古」で、圧搾床と発酵槽が揃った醸造施設の最古はアルメニアのアレニ1洞窟(紀元前4100〜4000年頃)。「何が最古か」を分けて語る必要があります。
発明していません。彼はむしろ瓶を破裂させる二次発酵を抑えようとした側だったと考えられており、実際の功績は区画や品種を組み合わせるアッサンブラージュと圧搾技術の改善にあるとされます。「星を飲んでいる」という言葉も、存命中の記録には見当たらず、19世紀後半の広告が初出とされています。
根絶されてはいません。だからこそ、世界のぶどう畑の大半が耐性を持つアメリカ系の台木に接ぎ木して植えられています。砂質土壌など虫が生きにくい環境では、接ぎ木していない自根の古木が残っている産地もあり、それ自体が語り草になっています。
ワインの八千年を通して見ると、変化を起こしてきたのはロマンではなく、必要だったことがわかります。壺に産地と年を書いたのは管理のため。松脂を塗ったのは漏れを止めるため。樽を使ったのは運ぶため。アルコールを足したのは腐らせないため。強い瓶を作ったのは石炭窯があったから。そして原産地を法で囲ったのは、虫と詐欺に追い詰められたからでした。
もうひとつ、この回で繰り返し出てきたことがあります。歴史のかなりの部分は、後から作られているということです。星を飲んだ修道士、土を舐めた修道士、狐に襲われた使者——どれも魅力的で、どれも裏付けが弱い。物語を否定する必要はありませんが、「これは伝説だ」と知ったうえで楽しむほうが、ワインはずっと面白くなります。史実のほうが、たいてい奇妙で豊かだからです。
次にラベルを手に取ったとき、そこに書かれた呼称は1935年の産物であり、瓶の形は17世紀の技術であり、接ぎ木された根は1863年の災厄の記憶です。一本のワインは、それ自体が歴史の断面。そう思って眺めると、売り場の景色は少し変わって見えるはずです。
次回は産地編へ戻ります。この講で見た「ワインの故郷」の、まさにその周辺——レバノン、イスラエル、トルコ、キプロス。聖書とアンフォラの時代から途切れながらも続き、いま静かに復活しつつある土地、東地中海完全編をご案内します。