
ヨーロッパ、最後の空白地帯黒海をのぞむ三国
ワイン売り場を思い浮かべてください。フランス、イタリア、スペイン、チリ、そして日本。では——ルーマニア、ブルガリア、モルドバの棚は、どのあたりにあったでしょうか。ワインの地図に残された、最後の空白地帯です。
規模で見ると、この空白はいっそう不思議に映ります。国際ぶどう・ワイン機構(OIV)の2025年版統計によれば、ルーマニアのぶどう栽培面積は約18万7,000ヘクタールで世界9位、生産量は約330万ヘクトリットルでEU域内6位。モルドバも約11万ヘクタール・約180万ヘクトリットルを持ちます。ブルガリアは約5万8,000ヘクタールと小ぶりで、生産量は100万ヘクトリットルに届きません。「三国とも大産地」ではなく、規模の異なる三国が並んでいる——ここが出発点です。
空白なのは、実力がないからではありません。20世紀の大半、この地域は体制のもとで「量を造る」役割を負っていました。造られた量の多くは国内や近隣圏へ流れ、西側の市場に「産地としての顔」を覚えてもらう機会がないまま数十年が過ぎたのです。
いま起きているのは、その巻き戻しです。1990年代の混乱期を抜け、国際品種を追いかけた時期を経て、三国とも自分たちの土着品種にこそ価値があると考え直しはじめました。読みどころは三つ。ルーマニアのフェテアスカ・ネアグラ、ブルガリアのマヴルッド、そしてモルドバの地下に広がるワインの街。節目の第40講は、黒海の岸辺へ向かいます。
「黒い乙女」の国ルーマニア
三国のうち、生産規模でも産地の多様さでも中心にいるのがルーマニアです。国土のまん中をカルパティア山脈が弧を描いて走り、その外側(南麓・東麓)と内側の高原とで、気候も産地の性格もはっきり変わります。南麓は暖かく赤に向き、東は冷涼で酸が伸び、内側のトランシルヴァニアの高原は標高が効いてきりっとした白が得意——というのが大づかみの理解です。
ただし、面積の数字をそのまま「大産地」と読むと足をすくわれます。EUの統計ではルーマニアのぶどう栽培経営体はEU最多の約80万、平均規模はわずか0.2ヘクタール。しかも登録簿上、畑のかなりの部分は自家消費向けの交雑種で、商業ワインに使われるヴィティス・ヴィニフェラの世界とは別物です。「巨大な自家用の畑」と「輸出も見据えた造り手」が同居している国——この二重構造を知っておくと、産地の姿がぐっと立体的になります。ちなみにルーマニアは一人あたりのワイン消費量でも世界の上位に入り、輸出額より輸入額のほうが大きい「自分で飲む国」でもあります。造った量の多くが国内で消えていく——これも、この国のワインが日本の棚に並びにくい理由のひとつです。

「黒い乙女」を意味する看板の黒ぶどう。黒すぐりやプルーンを思わせる濃い果実味に、まるい渋み。樽での熟成が色と味わいを安定させる。赤
「白い乙女」と「王家の乙女」。花や白桃を思わせる香りの白。レガーラは酸がしっかりして、泡や辛口白によく使われる。白
マスカット系の香り高い品種。名は「お香の」に由来すると言われ、辛口から甘口まで華やかな香りが持ち味。白
フェテアスカ・ネアグラは、栽培のほとんどがルーマニアと周辺国に限られているのが面白いところ。文献に姿を見せるのは20世紀に入ってからで、親にあたる品種はいまも特定されていません。「フェテアスカ・アルバの色違い」という説も、遺伝子の比較で否定されました。房が重く糖度が上がりやすい一方、色づきや熟し方が不揃いで畑の管理は難しい——だからこそ、造り手の腕がそのまま味に出ます。なお作付面積でルーマニア最多を占めるのは、赤ではなく白のフェテアスカ・レガーラです。
産地では、カルパティア南麓のデアル・マーレ(「大きな丘」の意)が赤の銘醸地として知られ、フェテアスカ・ネアグラのほかカベルネ・ソーヴィニヨンやメルローも上質に育ちます。北東部のコトナリはグラサ・デ・コトナリによる白で古くから名高く、南部のドラガシャニは土着品種の実験場として近年評価が高い産地。西部のレカシュは輸出に積極的で、日本でも比較的見つけやすい造り手です。
コトナリの甘口と、フルミントの「異母兄弟」 主役のグラサ・デ・コトナリは、かつてトカイのフルミントと同じ品種だと考えられていましたが、DNAの解析でそれは否定されました。ただし両者とも、シャルドネなど多くの品種の親であるグエ・ブランを親にもつ——いわば異母兄弟です。甘口は過熟して干しぶどう状になった実が基本で、年によって貴腐も加わります。ソーテルヌのように貴腐を前提とする産地ではない、という点は押さえておきたいところ。第19講甘口ワインの世界、トカイは第30講ハンガリー&ジョージアへ。
売れすぎた過去と、土着品種の現在ブルガリア
ブルガリアには、ワインの世界で少し変わった経歴があります。1980年代から90年代はじめにかけて、英国市場で「ブルガリアのカベルネ」が驚くほど売れたのです。業界の集計では、1990年までに英国向けだけで200万ケースを超え、英国における赤ワインの供給国として第4位につけたとされます。国営の輸出機関を通じて造られた、安くて飲みやすい国際品種のワイン——ワインを特別な酒から日常の酒へ引き下ろした立役者のひとつでした。
けれどブームは続きませんでした。体制の転換で畑の所有が細かく分かれ、産業は長い再編の時期に入ります。栽培面積はピーク時の三分の一以下にまで縮みました。立て直しの軸になったのが2007年のEU加盟と、そこから本格化した土着品種の見直しです。いまのブルガリアを楽しむなら、当時の「安いカベルネ」ではなく、この土地にしかない品種を選ぶのが近道です。
南部トラキア平原の土着品種。色が濃く、渋みと酸がしっかりして熟成にも耐える。作付面積は多くないが、ブルガリアの赤を象徴する一本。赤
南西部メルニク周辺の土着品種。「幅広の葉のメルニク種」の意で、香り高く骨格のある赤になる。多くの交配品種の親でもある。赤
1944年にプレヴェンの研究所で生まれた交配品種。親はネッビオーロ×シラーという意外な取り合わせで、色濃くスパイシー。赤
実は、いまのブルガリアで作付が多いのはメルローやカベルネ・ソーヴィニヨンで、マヴルッドは全体のごく一部を占めるにすぎません。それでも「ブルガリアの赤といえば」と真っ先に名が挙がるのは、置き換えのきかない味だから。白では香り高いミスケットや、黒海沿岸で広く育つディミャットが土着の代表格です。
産地は区分の仕方に幅がありますが、まずは四つを押さえておけば迷いません——赤の中心である南のトラキア平原、山あいのストルマ川流域(メルニク)、北のドナウ平原、そして白が得意な黒海沿岸。この講の冒頭の写真、ポモリエは黒海沿岸の産地です。
「国際品種で覚えない」という選び方 第38講クロアチア&スロベニアや第25講ギリシャと同じで、この地域は土着品種を選んだときにいちばん面白くなります。カベルネやシャルドネなら、もっと得意な産地がいくらでもある——けれどマヴルッドは、ここにしかありません。
地下に街がある国モルドバ
ルーマニアの東どなり、九州よりやや小さい国土のモルドバは、ワインが輸出の主要品目のひとつという、いまのヨーロッパでは珍しい国です。国土の多くがなだらかな丘陵で、産地はコドル(中部・白と泡)、シュテファン・ヴォダ(南東部・黒海に近く赤が力強い)、ヴァルル・ルイ・トラヤン(南部)の三つに整理されています。

モルドバを象徴するのが、この地下セラーです。首都の建材として石灰岩を切り出した跡の坑道が、そのままワインの貯蔵庫になりました。クリコヴァは公式に総延長120km・最深部80m、収蔵は約130万本。ミレシティ・ミーチは坑道の総延長が約200kmにおよび、そのうち約55kmをワインに使っています。150万本を超えるコレクションは「本数において世界最大のワインセラー」としてギネス世界記録に認定されました(2005年)。徒歩ではなく車で移動して見学し、地下の道には通りの名前までついている、文字どおり「ワインの街」です。
なぜ坑道なのか。第26講保存とサービングで見たとおり、ワインが求めるのは低めで一定の温度、適度な湿度、そして暗さ。地下の石灰岩は、電気を使わずにその三つを満たしてしまう場所でした。
ルーマニアと共有する看板の黒ぶどう。国境で分かれても、品種の文化は地続き。赤
「珍しい黒」の意。ルーマニアのバベアスカ・ネアグラと同一品種とされる。色は淡めで軽やか、スパイシーな赤い果実の風味。赤
土着品種にカベルネ・ソーヴィニヨンなどを組み合わせた赤が、この国の看板スタイルのひとつ。赤
輸出先が変わった国 モルドバのワインは長らく旧ソ連圏、とりわけロシア向けに大きく依存していました(資料により輸出の7〜9割)。ところが2006年にロシアが輸入停止に踏み切り、2013年にも再び規制を受けたことで、輸出先の組み替えが一気に進みます。EU側が関税を段階的に緩め、最終的に撤廃したことも後押しとなり、市場の喪失が結果として品質重視への転換を促したと語られます。いま日本で出会うモルドバワインの多くは、その転換の後の世代です。
いま飲むべき理由価格・個性・出会いやすさ
知名度がまだ価格に乗っていないぶん、同じ値段で一段上の中身に当たりやすい。2,000円台あたりが探しどころ。
マヴルッド、フェテアスカ・ネアグラ、ララ・ネアグラ。他の産地では代わりが利かない香味に出会える。
濃い赤には煮込みや炭火焼き、香り高い白には香草やスパイスを使った料理を。基本は第27講ペアリングのとおり。
- まずは赤から一本 いちばん「らしさ」が出るのは赤です。ルーマニアのフェテアスカ・ネアグラなら親しみやすく、ブルガリアのマヴルッドなら骨太。どちらも中価格帯で見つかります。
- 裏ラベルで輸入元を覚える この地域は、扱う輸入元が限られています。気に入った一本の輸入元名を控えておくと、次の一本にたどり着くのが格段に早くなります(第33講ワインの買い方)。
- 比べて飲む 同じフェテアスカ・ネアグラをルーマニアとモルドバで、同じ土着品種を造り手違いで。比較は、いちばん効率のいい勉強です(第31講テイスティングの言葉)。
探し方 スーパーではまだ見かけにくいので、輸入元と専門店から入るのが確実です。店では「ルーマニアかブルガリアの赤を、2,000〜3,000円で」と伝えるだけで十分。丸投げは、いちばん正しい頼り方です(第35講レストランでのワイン)。
空白は、これから埋まる黒海の三国
黒海周辺は「ルーマニアのフェテアスカ・ネアグラ」「ブルガリアのマヴルッド」「モルドバの地下のワイン都市」——この三点で見通せます。最初の一本は、飲みやすさならルーマニアのフェテアスカ・ネアグラ、力強い赤が好きならブルガリアのマヴルッド、話の種になる一本ならモルドバを。第30講ハンガリー&ジョージア、第38講クロアチア&スロベニア、第24講オーストリアと併せて読めば、中欧から黒海までの地図がひととおりつながります。
この三国については、日本語でも英語でも「◯千年の伝統」「かつて世界◯位」といった威勢のいい話が流通しています。けれど本当に面白いのは、数字の裏にある二重構造——巨大な自家用の畑と少数の本気の造り手、失われた市場と、それゆえに始まった作り直し。知られていないということは、まだ誰も高い値段を払わされていないということでもあります。先に知っておくと、いちばん得をするのはこういう産地です。
次回は憧れの図鑑へ。霧のピエモンテ、ネッビオーロの王バローロ——「伝統派」と「革新派」が真正面からぶつかった、あの論争の中身を訪ねる銘醸図鑑「バローロ」をご案内します。
