スーパータスカンを生んだ伝説
サッシカイアは、イタリアワインの歴史を変えた一本です。ボルドーを愛したマリオ・インチーザ・デッラ・ロケッタ侯爵が、1940年代にトスカーナ海岸のボルゲリでカベルネ・ソーヴィニヨンを植えた——その個人的な実験が、すべての始まりでした。名は「石ころだらけの土地」を意味します。侯爵はこの石の多い痩せた丘がボルドーのグラーヴ地区に似ていると見抜いたのです。
苗木にまつわる有名な逸話にはひとつ訂正が要ります。長く「シャトー・ラフィット由来の苗木」と語られてきましたが、一族自身がこれを否定しており、実際はピサ近郊ミリアリーノのサルヴィアーティ公爵家の古い畑から譲り受けた苗木だったと伝えられています。伝説より少し地味な真相ですが、「よそのラベルではなく、自分の舌が信じた味を植えた」という話としては、むしろこちらの方が侯爵らしいかもしれません。
20年間の私蔵ワイン
最初のワインは戦時中の1940年代半ばに生まれましたが、1967年までの20年余り、サッシカイアは家族と友人のためだけの私蔵ワインでした。若いうちは硬く、タンニンの強いこのワインが瓶の中で見事に熟すことに気づいた侯爵は、甥のピエロ・アンティノーリらの説得を受け、ついに1968年ヴィンテージを世に問います(市場に出たのは1971年)。醸造を支えたのは、アンティノリの伝説的醸造家ジャコモ・タキス。これが絶賛を浴び、「スーパータスカン」という潮流そのものを生み出しました。
当時のイタリアの原産地呼称制度では、土着品種を使わないこのワインは最下級の「ヴィーノ・ダ・ターヴォラ(テーブルワイン)」を名乗るしかありませんでした。格付けは最下級、価格と評価はイタリア最高峰——この痛快なねじれが制度そのものを変えていく物語は、銘醸図鑑:ボルゲリで詳しく歩けます。同じ流れから、タキスとピエロ・アンティノーリの「ティニャネロ」(1971年〜)が、のちに侯爵の甥ロドヴィコ・アンティノーリのオルネッライアが生まれました。
イタリア唯一の格
1994年、サッシカイアは新設のボルゲリDOC内に「ボルゲリ・サッシカイアDOC」というサブゾーンを与えられ、2013年には独立したDOCに昇格しました。単一生産者が自身のワイン名を冠するDOCは、イタリアでサッシカイアただ一つ。テーブルワインから始まった革命は、ついに「自分だけの原産地呼称」という前例のない形で制度に迎え入れられたのです。
ワインの中身は一貫しています。セパージュはカベルネ・ソーヴィニヨン85%+カベルネ・フラン15%。標高およそ400mのカスティリオンチェッロをはじめとする自社畑のぶどうを、フレンチオークのバリック(新樽はおよそ3〜4割)で約24か月熟成させます。ボルゲリの同輩たちの豊満さに比べ、サッシカイアはしなやかで香り高く、どこか涼しげと評されるスタイル。1985年はロバート・パーカーがイタリアワインに初めて与えた100点となり、2015年はワイン・スペクテーター誌の2018年「トップ100」第1位に選ばれました——初ヴィンテージからちょうど50年の節目でした。長期熟成の楽しみは第29講 ヴィンテージと熟成完全編でどうぞ。
海と石ころのテロワール
ボルゲリはティレニア海を望む海岸の産地です。内陸のキャンティが標高で暑さをしのぐのに対し、ここでは海からの風が畑を冷まし、病気を遠ざけます。サッシカイアの畑は海辺の低地から標高約400mのカスティリオンチェッロまで階段状に広がり、名前の由来となった石だらけの水はけのよい土壌がカベルネに深い根を張らせる——「暑い土地なのに、ワインは涼しげ」というサッシカイアの個性は、この海と石の組み合わせから生まれます。1940年代には「海辺でまともな赤などできない」というのが常識で、だからこそボルゲリは無名のままだった。常識の裏側に銘醸地が眠っていた、という点でも痛快な話です。
馬と森とワインの家
テヌータ・サン・グイドは、ワインだけの家ではありません。マリオ侯爵は名伯楽フェデリコ・テジオとともにドルメッロ・オルジャータ牧場を営み、そこから出た名馬リボーは凱旋門賞を1955・56年に連覇、生涯16戦無敗の伝説を残しました。牧場はいまも敷地内で続き、糸杉並木のかたわらに調教場があります。敷地内の湿地は早くから野生動物の保護区として守られてきました。現在は二代目ニコロが名誉会長として見守り、三代目のプリシラ・インチーザ・デッラ・ロケッタが家族の顔を務めています。
手の届くところから
本体は別格の価格ですが、入口は用意されています。レ・ディフェーゼ(カベルネ70%+サンジョヴェーゼ30%、4千〜5千円前後)なら、この家の端正な赤を気軽に。グイダルベルト(カベルネ60%+メルロー40%、7千〜9千円前後)まで進めば、サッシカイアに通じるしなやかさがはっきり見えてきます。その物語の全体像は第7講 イタリア完全編と銘醸図鑑:ボルゲリで。隣人オルネッライアと飲み比べれば、同じ丘の二つの美学が立体的に見えてきます。

